日  誌
2009年12月⑧

12月⑦へ 2010年へ
 2009年日誌
スケジュール
12月29日(火)

1月4日(月)
年末・年始休み

12月31日(木)
田舎から餅が到着 みかんの差入れ
太田さんのパンで昼食 トリッパ 与論島のインゲン
飯田鮨さんから卵焼きの差入れ カレンダー到着
 今年最後の夕食会 オイスター焼きそば タニーの白菜漬け
プル・こぷちゃん 骨付きカルビ
サムゲタン
焼きます
年越しそばの時間です 動労千葉物販の蕎麦
近くの本立寺に、2010年決戦、勝利祈願


12月30日(水)
動労千葉を支援する会のホームページから転載
社保庁500人の分限免職に
平口さんが怒りの決起!
 官公庁の“仕事納め”の12月28日、社会保険庁の500人の労働者に「平成21年12月31日限りで国家公務員法第78条第4号により免職する」との『人事異動通知書』が渡され、分限免職が強行された! 当該の一人、広島県・福山社会保険事務所の平口雅明さんは、11・1労働者集会での決意も新たに、職場の前に敢然と登場して、出勤してくる働く仲間に、「共に闘おう!」と呼びかけて『社保庁ニュース』号外ビラを配布した。

 「不採用通知を撤回しろ! 希望者全員を新機構に正規職で採用せよ!」「私は、社会保険労働者として働くことに誇りを持って働いてきたし、2010年1月1日以降も福山社会保険事務所で働く意志と権利があることを宣言します」「社会保険労働者は、誇りをもって、自分の利益のために仲間を売り渡さず、労働者が経済的理由等で不祥事を起こすことを直前で未然に防いできた諸先輩の努力を引きついで、職場の労働組合を軸に闘ってきました。また、民間の労働者の不当解雇や病気休職の労働者・派遣労働者・外国人労働者など資本に虐げられた労働者の立場にたって、労働者の団結と階級性を信頼し、多くの闘いを担ってきました」という平口さんの訴えに、多くの職場の仲間から、去る者・残る者の区別なく激励や解雇撤回の署名が寄せられた。

 さらに退勤時には、横断幕を広げて、「道州制・民営化=公務員360万人首切り絶対反対! 不採用通知を撤回せよ! 『人事異動通知書』を白紙撤回せよ! 国鉄1047名解雇撤回闘争のように闘おう! 闘う労働組合を再生しよう! 新機構の『名ばかり』管理職攻撃粉砕! 労働監獄の一里塚=新年36協定を破棄しよう!」とアジテーションを行い、広島県労組交流センターの仲間と一体で通用門前での街宣をやり抜いた。退勤する労働者は、大半が「ごくろうさま、がんばって」のあいさつを交わしていく。

 広島県労組交流センターと広島の闘う労働者は、解雇撤回まで断固闘うという平口さんと固く団結して、年明けから平口さんと団結して解雇撤回闘争を闘います。全国の社保庁労働者、とりわけ分限免職攻撃を受けた仲間の皆さん! 私たちと共に解雇撤回を勝ち取るまで闘おう!(広島D)

12月29日(火)
忘年会の残り物で昼食。 北島区議差入れのホタテ汁  年末休暇だけど、みな集まって掃除
北島・杉並区議のお裾分けのエゾ鹿のステーキ。レアで作ったので、異常に美味しかったです。来年も宜しく!
奪還後も、カンパが止まりません!

 だ  ん   け  つ
2009年12月29日
№271
東京北部ユニオン 「街」分会
関町北4-2-11
ついに5人を奪還した!
 8学生全員の年内奪還に完勝!
 12月28日、ついに獄中の5人の学生を奪還した! 東京地裁刑事第1部の保釈決定が25日に出されたが、検事・岡本が東京高裁に抗告して学友たちを1秒でも長く獄に閉じ込めておこうとする策動に走り、結論が持ち越されていた。だが、それも最後の悪あがきだ。全学連と法大文化連盟の学生、そして連帯する労働者は、この日も早朝からの裁判所前での情宣・抗議活動を徹底的に行い、午後に東京高裁の抗告棄却を力ずくでかちとったのだ。

 夕方5時、小菅の東京拘置所前に全学連と文化連盟、そして被告の家族らが陣取った。その中には22日に奪還された倉岡雅美さん(全学連副委員長)、斎藤郁真君(法大文化連盟委員長)もいる。全学連旗と文化連盟ののぼりが掲げられ、シュプレヒコールやアピールが次々と行われ、寒風の中だが否が応でも気持ちが高まっていく。

 待ちに待った瞬間が訪れた。通用口が開けられ、新井拓君、増井真琴君(文化連盟企画局長)、恩田亮君(文化連盟副委員長)、織田陽介君(全学連委員長)、内海佑一君(全学連前副委員長)の順で登場。拍手と歓声の中、それぞれがマイクを握って勝利の凱歌を上げた。握手が続き、花束が渡され、たちまち胴上げだ。出獄者たちも迎える側も、みな勝利感あふれる笑顔、笑顔。全員がそろったところで、肩を組んでインターナショナルを、さらに法政大学の校歌を斉唱した。

 打って一丸となった闘いによって、ついに8人全員を年内に奪還した。暴処法弾圧をかけてきた日帝・国家権力、そして学生を警察に売り渡した法大当局を絶対に許さない。2010年法大解放闘争勝利へ! 
この勢いはもう誰にも止められない。(TN)

早朝からビラまき 横断幕も 裁判長面接拒否!
阿部裁判長はただちに保釈をみとめよ!5人をとりもどすため、みなさん、裁判所前に今すぐかけつけてください!
東京高裁、阿部裁判長はなんと弁護団との面接を拒否する暴挙にでた!絶対許すな!
弁護団は面接を求めて高裁に詰めています。
松室書記長代行のアピール まちきれません
いまから小菅にいくぞ!
住民無視の30万回発着は許さない
三里塚反対同盟のブログから転載
12月26日の新聞報道

12月25日、国土交通省、千葉県、地元9市町、成田空港会社の4者協議会が開かれ、空港会社が「2014年度中にも30万回が可能」とするスケジュールを発表したことが報じられました。相川芝山町長や小泉成田市長らが、首長という立場にありながら飛行時間の制限緩和を空港会社に要望したばかりですが、羽田ハブ化にあせり、住民不在で繰り広げる「成田の機能充実」の大合唱は怒りに絶えません。
 飛行回数を1.5倍にしようというのに、機体が低騒音化するから騒音の影響は小さくなると言います。机上の話でしかありません。「うるさいことに変わりはない。それを我慢して暮らしている人間がいることを考えてほしい」(毎日新聞)という騒音か住民のコメントが現実を物語っています。
 最も許せないことは、第3の誘導路について、2012年度に「完成」「供用開始」と何の問題もないかのように報じられていることです。第3の誘導路は市東さんの家や作業場、畑を空港の中に囲い込み、爆音と排気ガスでたたき出そうという、絶対に許せない暴挙です。
 反対同盟は、危機にかられたこれらのキャンペーンに対して、怒りも新たに闘いに立ち上がります。
*****
 21日の成田市役所・駅頭街宣、24日の芝山町役場街宣で配布したビラを掲載します。
 ぜひご覧いただき、活用して下さい。相川芝山町長、小泉成田市長を弾劾し、闘いましょう。

p091226_2.jpg

成田市役所・駅頭街宣ビラはこちら

p091226_3.jpg

芝山町役場街宣ビラはこちら


 昔、「地下鉄が、どこから入るのかを考えると、夜も眠れない」という漫才があったが、レーニンの機関紙に賭ける執念は、どれぐらいだったのかを考えていたら眠れなくなったので調べてみた。参考資料 ↓
 レーニンの機関紙活動に学び、無数の職場細胞建設を!
 『前進』で拠点職場・地区党づくりを推し進めよう 前進経営局 共産主義者 163号
ボルシェビキは、機関紙を軸に党を建設し、労働組合活動を徹底的に推進することで、階級の党に成長した革命的労働者党だった。
 1895年秋に、ペテルブルグのあらゆるマルクス主義者サークル(約20あった)が結集して単一の政治組織「労働者階級解放闘争同盟」をつくり、ストライキ闘争を指導し、非合法の労働者新聞の発行を準備した。レーニンをはじめ大部分が一斉逮捕され、新聞は発行できなかった
 逮捕・投獄されたレーニンには14か月の勾留と3年間のシベリア流刑が科せられたが、彼はこの過程でマルクス主義党の創設計画を練り上げた。それは次のようなものであった。
 労働者階級自己解放は労働者自身の事業であり、労働者がみすがら組織する以外にない。労働運動が非合法のロシアでいかに労働者党を組織するか。非合法の機関紙で結びつく職業革命家の組織をつくることであり、機関紙は国外で発行する以外にはない、と。
         
 「われわれは、規則的に発行され、すべての地方グループに緊密にむすびついた党機関紙を設立することを、自分の当面の目的としなければならない」(「われわれの当面する任務」、第4巻234p)

 「わが国では、革命的な新聞が、(われわれが政治的自由をたたかいとるまでは)このすべての、まさにこのすべての代りをつとめなければならないのである。わが国では、こういう新聞なしには、労働運動全体のどんな広範な組織化も不可能である」235p
『イスクラ』(火花)を国外で発行。レーニンは1900年7月に、国外で機関紙を発行する目的で亡命
 第2回党大会の結果、思想的統一がなしとげられ、サークル主義的な限界性と閉鎖性の伝統からの解放をなしとげ、何十というさまざまなグループを一緒にまとめて、第2インターナショナルの改良主義的な党とは原則的に違った革命的マルクス主義にもとづく党の出発点をつくることができた。その後、党大会ではレーニンを支持していたプレハーノフが大会後メンシェビキの側に移ったため、『イスクラ』編集局はメンシェビキの手に移った。レーニンは編集局を脱退した。約1年間、ボルシェビキは「機関紙のない党」に陥った
②『フペリョード(前進)』(1904年12月)
③合法週刊紙『ズヴェズダ』(星)発行 1910年 12年3月以来それは週3回発行
 ストルイピン反動のなかで党勢は後退し、党は中央委員会を失った。革命は存亡の危機
12年1月にプラハで第6回全国協議会を開催。そこで決議されたのは、以下のような内容である。
 ①あらゆる種類の合法的な労働者団体のできるだけ広い網にとりまかれた非合法の社会民主労働党細胞を、非合法党を再建すること。
 ②そのために労働運動を積極的に闘い、労働組合の個々の活動家と協力して、労働者細胞を建設して労働運動の指導権を握ること。
 ③「民主的共和国、8時間労働制、地主の全土地の没収」の三つのスローガン国会議員選挙を闘うこと。
 ④非合法の党新聞を普及させ、非合法細胞と合法的団体内の党細胞の団結を強めることを決定
④『プラウダ』(真理)創刊 1912年5月
 『プラウダ』は次々に弾圧されたが発行を継続し、最高時4万部を発行していた。解党派の日刊紙(1万6000部)、エスエル(社会革命党)の週3回紙(1万2000部)を大きく上回っていた。『プラウダ』の予約購読者は1914年7月で首都3125部、地方8409部であった。残りは、工場街でのバラ売りであった。
 『プラウダ』以外に、月刊誌『プロスヴェシチェー二(啓蒙)』(5000部)、『保険問題』(1万5000部)、隔週刊誌『婦人問題』などの合法機関紙誌を発行していた。多くの疾病病院組合理事会の多数を握り、ここを工場内の党活動の拠点にした。
 1914年7月に第1次世界大戦が開始されるや、合法主義・改良主義の西ヨーロッパの社会主義政党の指導部は自国政府支持を明らかにし、第2インターナショナルは崩壊あらゆる合法主義党派が崩壊した。ボルシェビキは合法機関紙を奪われ、先進的労働者が工場を追われたが、工場細胞を基礎にした地区党と地域拠点を奪うことはできなかった。ボルシェビキは非合法機関紙『ソシアル・デモクラート』を維持した。
⑤ 1917年3月5日に日刊『プラウダ』再刊。4月3日にレーニン帰国、4月テーゼで全党を再武装する闘いに。4月テーゼによって初めてボルシェビキは真の革命派に。ボルシェビキ党員は2月革命当時、ペトログラードで2000人、モスクワで600人、全国で2万4000人であった。
 7月闘争への弾圧は即座に開始された。7月5日、『プラウダ』編集室は襲撃され、同紙は発刊停止
 『プラウダ』は政府により発刊停止に追い込まれたが、その代わりに党軍事組織機関紙が日刊で5~7万部も発行された。弾圧で8つの新聞が閉鎖。しかし3つの新聞が新規創刊。当時30のボルシェビキの地方紙と11の雑誌で計23万5000部が発行
 7月21日に地区ソビエト協議会は前線での死刑即時中止、労働者の武装解除中止、全政治犯即時釈放、左翼系新聞復刊などを要求する決議
 政府の10・23秘密閣議は、7月闘争保釈者で反政府活動をしている者(トロッキーら)の即時逮捕、『ラボーチ・プーチ』(『プラウダ』)、『ソルダート』などの停刊を決定した。24目、政府軍が『ラボーチ・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠・封印したが、軍事革命委員会が奪還

 【4章】機関紙活動が生みだした組織
2月革命から10月革命にいたるボルシェビキの闘いは、くめども尽きぬ教訓を与えている。いかにして少数派のボルシェビキはソビエトの多教派になれたか。

 万人が一致して、一人の人間のように立ち上がること、資本家に勝利するのに必要なものは、一にも、二にも、三にも組織であるとレーニンは提起した。

 第一には、綱領的・路線的一致である。当初の臨時政府条件付き支持から、レーニンの4月テーゼによって転換し、ソビエト権力樹立=「全権力をソビエトヘ」の方針で全党が統一されていった。レーニンの権威と正しさ、説得力ということはあるにしても、この転換を1か月弱で闘いとった党の力は大きい。

 第二に、工場委員会の組織化をテコに、労働組合とソビエトの力関係を逆転していった。あくまでも労働者階級の組織化に柱を置き、粘り強く闘いぬき、2000をこえる工場委員会を組織した。戦争と飢餓にたいして、それがだれの利益かをあばき、党派闘争で体制内指導部を失墜させ、たたき出していった。

 第三に、二重権力下での革命と反革命の息詰る攻防、平和的デモと武装デモ、公然的活動形態と非公然的形態などを柔軟に駆使し、体制内諸党派を打倒し、短期間に20倍近い組織拡大を実現した。

 これらを実現した組織活動の基礎に、1903年以来のボルシェビキの労働組合運動の実践機関紙を軸とした組織建設の力があった。

 『なにをなすべきか?』の第5章には、全国的政治新聞の計画は「あらゆる側面からいますぐ蜂起の準備をはじめると同時に、自分の緊要な日常活動をただの一瞬間も忘れない、もっとも実践的な計画なのである」(第5巻560p)とあるが、ボルシェビキはこれを、うまず・たゆまず実践して、労働者階級の武装蜂起―権力奪取に勝利する党に成長していったのである。
 結語
 ロシア革命勝利の教訓から学んで、われわれが今しっかりと確認し着実に実践しなければならないことは何か。

 第一に、権力奪取のための一斉武装蜂起に向かって、綱領と路線で一致し、マルクス主義で一致する本質的に非合法・非公然の中央集権主義の党を建設することである。その武器は機関紙である

 第二に、国鉄1047名闘争を基軸に労働組合での体制内党派との労働組合での権力闘争に勝利することである。その武器は機関紙である。

 第三に、そのために労働者細胞を建設することである。組織三原則(会議・機関紙・財政)を実践することである。その武器は機関紙である。

 機関紙活動によってこそ、規律ある組織(中央集権主義)、マルクス主義の労働者党を建設することができる。
 機関紙活動は地道で、粘り強さを要請される日常活動である。そこで党派性・革命性が試され、鍛えられる。
 機関紙活動を軸にしてこそ、無数の職場細胞、拠点職場と地区党を建設することができる。
 機関紙担当者会議を組織し、機関紙活動の大前進を闘いとろう。
 1917年2月革命をへて同年4月に開催されたロシア社会民生労働党(ボ)第7回全国協議会の決議集序文で、レーニンは次のように言っている。

 「言葉を信用するな! 約束に心をうばわれないようにしよう! 自分の力を過大視するな! 各工場、各連隊、各中隊、各街区に、組織をつくれ! 毎日、毎時間組織のことに取りくめ! 自分で活動せよ! この活動を第三者のだれにも下請けさせてはならない! 先進的な労働者にたいする大衆の完全な信頼が、しだいに、しっかりと、うちこわせないように、つくりあげられていくような活動を目標とせよ!」(『レーニン全集』第24巻325p)
 このようにレーニンは火を吐くように呼びかけた。そしてボルシェビキは、この任務を見事に達成した。

 2月革命当時2万4000人のボルシェビキは息詰まる激闘を闘い抜き、10月には40万人の組織に成長した。工場委員会の多数派を握り、労働組合の執行部を握り、ペトログラードとモスクワの両首都のソビエトの指導権を握って武装蜂起し臨時政権を打倒した。

 ボルシェビキは4月テーゼで党内を統一し、連日の職場・兵営・ソビエトで階級協調派との激闘を闘い抜きつつ、「各工場、各連隊、各中隊、各街区に」機関紙を軸にボルシェビキ組織を組織した。

 この闘いをふり返ってレーニンは後年、「共産主義における『左翼空論主義』」において次のように指摘した。
 「〔労働貴族との闘争は〕容赦なくやって、われわれのしたように、日和見主義と社会排外主義の度しがたい指導者全部にすっかり恥をかかせ、彼らを労働組合から放逐するまで、必ずやりとげなければならない。この闘争がある程度に達しなければ、政治権力を獲得することはできない(またそれをとろうと試みてはならない)」(1920年4~5月執筆、第31巻37p)

 「系統的に、頑強に、根気づよく、忍耐づよく、宣伝し、煽動するために、どんな犠牲をもはらい、最大の障害にも打ち勝つことができなければならない。そして労働組合と労働者協同組合こそ、そこに大衆のいる組織である」(同39p)

 それは、職場に機関紙を広め、職場細胞を建設し、職場細胞の力で体制内指導部をうち倒す営々とした闘いである。

 レーニンは、その闘いを機関紙を軸につくりだしていった。この闘いから学んでいきたい。
 疑問も解けて、これでやっと安眠できるぞーっ! この次回の「街」分会・連続講座は、このテーマも良いなぁ!


12月⑦へ 2010年へ
 2009年日誌
inserted by FC2 system